妾(めかけ)とは?愛人や側室との違いと明治の法制度を徹底解説
歴史小説や大河ドラマ、あるいは旧家の家系図などで目にする機会がある「妾(めかけ)」という存在。現代の価値観では「愛人」と同じ意味合いで捉えられがちですが、かつての日本社会において両者の立ち位置は大きく異なっていました。単なる不倫相手ではなく、家制度や法制度、身分秩序の中に公然と組み込まれていた過去があります。
富や権力の象徴として扱われた時代から、明治維新を経て国家の法制化に組み込まれ、そして急速に姿を消していった背景には何があったのか。愛人や側室との決定的な序列の違い、語源の由来、そして現在に至る法律上の変遷まで、知られざる実態を掘り下げます。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:「妾(めかけ)」は家長によって生活が保障され、周囲にも認知された半公認の存在であり、隠匿される現代の「愛人」とは社会的位置づけが根本から異なる。
- 要点2:明治初期の1870年に制定された法規では「正妻と同等の二等親」として一度法認されたが、欧米列強の視線や一夫一婦制への転換により1882年に公式撤廃された。
- 要点3:「二号さん」や「囲い者」といった俗称は生活拠点の提供に由来し、現代の民法上では妾契約自体が公序良俗違反として法的に無効となる。
【言葉のルーツ】妾(めかけ)の意味と語源・英語表現の基本
「妾」という漢字は、本来「めかけ」だけでなく「しょう」とも読み、古代中国では罪を得て奴隷となった女性や、身分の低い召使を指す文字でした。日本においては、本妻(正妻)以外の公認または半公認された女性パートナーを指す言葉として定着しました。
大和言葉としての「めかけ」の語源には諸説あります。有力な説の一つは、主人が目をかけて寵愛することから「目掛け」に転じたとする見解です。また、手元に置いて召し使う女性を意味する「召し女(めしめ)」が音変化したとする説も存在します。いずれにしても、単なる情欲の対象というよりも、「特定の権力者や家長の庇護下に置かれた女性」というニュアンスが語源の根底にあります。
英語で「妾」を表現する場合、歴史的・文化的なニュアンスに応じて使い分けがなされます。古代の一夫多妻的な公認の妾であれば「concubine(コンキュバイン)」が最も正確です。一方、近代以降の経済的支援を受ける愛人・囲い者に近い文脈では「kept woman」や「mistress」と訳されるのが一般的です。
【違いを徹底解剖】正妻・側室・妾・愛人の序列と区分の真相
歴史ドラマなどで混同されやすいのが「側室」「妾」「愛人」の違いです。かつての日本社会、特に上流階級や武家社会では、女性たちの間に厳格な序列と役割分担が存在していました。
最も身分が高いのは当然ながら「正妻(本妻・正室)」です。家の存続を司る第一のパートナーであり、対外的な儀礼や奥向き(家政)の最高責任者でした。これに次ぐ存在が「側室」です。側室は主に大名家や皇族・公家などにおいて、「家督を継ぐ男子の確保」という極めて公的な使命を帯びて迎えられた正式な身分でした。正妻の合意のもとで儀礼を経て迎えられ、武家社会の秩序内に確固たる地位を持っていました。
これに対し「妾」は、側室ほどの公的な身分格式を持たないものの、家長が私的な住居や生活費を与えて扶養し、親族や周囲もある程度その存在を認知している関係を指します。別宅に住まわせるケースが多かったことから「囲い者(かこいもの)」や「手掛け」とも呼ばれました。
一方、現代の「愛人」は、婚姻関係を結んでいる者が配偶者に隠れて密かに交際する相手を指し、社会的な公認性は皆無です。つまり、「側室(完全な公的制度)> 妾(経済的扶養を伴う半公認)> 愛人(隠匿された私的関係)」という序列と構造の違いが明確に存在していました。
【明治の激動】なぜ法律で公認された?妾制度の導入と廃止の全貌
明治維新を迎えた日本において、妾の存在を巡る法制度は劇的な転換期を迎えました。明治3年(1870年)に発布された刑法規範である『新律綱領』において、政府は驚くべきことに「妾を正妻とまったく同等の二等親」として明文化しました。
なぜ明治政府は妾を法的に認めたのか。最大の理由は、旧武家社会から続く「家制度」と「血統の維持」を円滑に進めるためでした。当時の指導者層自身の多くが妾を抱えていた実情に加え、跡継ぎが途絶えることを極度に恐れた結果、前近代的な慣習を近代法制の中に強引に組み込んだのです。これにより、妾は戸籍にも「妾」として正式に記載されることとなりました。
しかし、この制度はわずか十数年で崩壊します。幕末に結ばれた不平等条約の改正を目指していた日本にとって、欧米列強から「一夫多妻を認める野蛮国」とみなされることは致命的な外交上の障壁でした。さらに、キリスト教知識人や福沢諭吉といった思想家からの猛烈な批判、女性権利運動の高まりも重なりました。
結果として、明治15年(1882年)施行の旧刑法によって親族としての規定が削除され、明治31年(1898年)の明治民法制定によって「一夫一婦制」が法的に確立。妾制度は国家の法制度から公式に消滅することとなりました。
【昭和・平成への変遷】「二号さん」の由来と非嫡出子の相続権
法制度としての妾が廃止された後も、富裕層や政治家、実業家の間では私的な慣習として妾を囲う文化が昭和中期頃まで色濃く残りました。その中で生まれた代表的な俗称が「二号さん」です。
「二号さん」の語源には諸説あります。明治時代、東京・柳橋や新橋などの花街で芸者を妾として囲う際、本宅を一号、別宅の妾宅を二号と呼んだことに由来する説が有力です。また、正妻を「一号」、妾を「二号」と番号で隠語的に呼んだ名残りとも言われています。
歴史の変遷の中で長年議論の的となってきたのが、妾から生まれた子ども(婚外子・非嫡出子)の権利です。旧民法下では、妾の子は正妻の子(嫡出子)に比べて遺産相続分が冷遇されていました。戦後の民法でも長らく「嫡出子の2分の1」と定められていましたが、法の下の平等を定めた憲法違反であるとの議論が続きました。
そして2013年(平成25年)、最高裁判所大法廷は「婚外子の相続分を半分とする規定は違憲」とする歴史的判決を下しました。これにより民法が改正され、親の婚姻形態にかかわらず、子どもの相続権は完全に平等となっています。
【現代の法解釈】現代日本における「妾」の位置づけと不貞行為の責任
2026年現在の日本法において、「妾」という法的身分は存在しません。民法第732条は「重婚の禁止」を定めており、婚姻関係にある者が重ねて別の人物と婚姻関係を結ぶことは一切認められていません。
また、かつて交わされていた「妾契約(経済的支援と引き換えに男女関係を維持する契約)」は、民法第90条の「公序良俗に反する行為」として法律上完全に無効と判断されます。「手切れ金を払う」「毎月生活費を支払う」といった契約を公正証書などで交わそうとしても、不法原因給付とみなされ法的強制力は持ち得ません。
現代において妾関係を結ぶ行為は、配偶者に対する不法行為(不貞行為)に該当します。正妻(配偶者)から関係者双方に対して損害賠償(慰謝料)請求が認められる対象であり、社会的信用を大きく損なう法的リスクを伴う関係となっています。
【め かけ】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:妾(めかけ)と愛人の最大の違いは何ですか?
A1:最大の相違点は「周囲への認知度」と「経済的扶養の形態」です。妾は主人の庇護のもと、生活拠点を与えられて半公然と認知される存在でしたが、現代の愛人は配偶者や周囲に隠れて関係を持つ点が決定的に異なります。
Q2:明治時代、戸籍に「妾」と書かれていたというのは事実ですか?
A2:事実です。明治3年(1870年)の『新律綱領』制定以降、妾は正妻と同等の親族(二等親)として扱われ、公的な戸籍にも記載されていました。しかし明治15年(1882年)の法改正により、戸籍や法律上の身分としての扱いは完全に撤廃されました。
Q3:昔の偉人はなぜ公然と妾を持つことができたのですか?
A3:当時は「家の存続と跡継ぎの確保」が最優先課題であり、男子を多くもうけることが家長の責務とされていたためです。また、経済的に複数の女性や家庭を養う能力が、社会的ステータスや権力の証として容認されていた時代背景がありました。
まとめ:時代とともに変遷した家族観と歴史の事実
「妾(めかけ)」という存在は、前近代から近代への過渡期における日本社会の家族観、法制度、そして国際関係の変遷を如実に映し出す鏡です。家督継承を目的とした武家社会の側室文化から、富の象徴としての囲い者、そして明治政府による一夫一婦制の確立に至るまで、その扱いは時代ごとに大きく変化してきました。
現代の法秩序においては不貞行為として否定される関係ですが、過去の文学や歴史的背景を正しく紐解く上では、単なるスキャンダルではなく当時の身分制度や社会構造の一部であったという多角的な視点が欠かせません。 (出典: め かけ(Yahoo!ニュース))