九龍城に住んでいた人の実態|東洋の魔窟と呼ばれた巨大迷宮の生活と現在
かつて香港の片隅に存在し、「東洋の魔窟」として世界中にその名を轟かせた巨大建築群、九龍城砦(きゅうりゅうじょうさい)。わずか2.6ヘクタール(甲子園球場のおよそ3分の2)という極小の敷地に、最盛期には5万人以上が密集して暮らしていたとされ、世界最高峰の人口密度を誇る異形の空間でした。映画やゲーム、アニメ作品のモチーフとしても今なお絶大な人気を誇りますが、その内部で実際に人々がどのような日常を送っていたのか、その実像は都市伝説の影に隠れがちです。
犯罪組織が支配する無法地帯という恐ろしいイメージが先行する一方で、城砦の内部には無数の家族が暮らし、子どもたちが走り回り、独自のコミュニティと生活インフラが機能していました。1990年代の解体から長い年月が経った現在、九龍城砦の住民たちはどのような運命をたどり、どこへ移り住んだのでしょうか。当時の記録写真や日本人の潜入記録、元住民たちの貴重な証言をもとに、迷宮に生きた人々の息遣いを解き明かします。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:「無法地帯」のイメージが強い九龍城砦だが、1970年代以降は一般の労働者や難民が身を寄せ合う下町コミュニティとして機能していた。
- 要点2:無秩序な高層化により迷宮化した内部には、独自の電力・水道網や無資格の歯科医、食品工場、幼稚園までが存在した。
- 要点3:1993年からの解体に伴い巨額の立ち退き補償と公営住宅への移住が実施され、跡地は「九龍寨城公園」として当時の面影を伝えている。
【無法地帯の噂と治安の真相】「東洋の魔窟」と呼ばれた九龍城砦のリアル
九龍城砦が「魔窟」と呼ばれるようになった最大の背景には、複雑怪奇な政治的空白地帯としての歴史があります。1898年にイギリスが香港島周辺を99年間の租借地とした際、清朝の軍事拠点であった九龍城砦のみが租借対象から除外されました。その後、清朝が崩壊すると砦の帰属は極めて曖昧になり、「イギリスも中国も香港政庁も手を出さない」という「三不管(サンプーグアン)」状態が誕生したのです。
行政権が及ばない空白地となった城砦には、第二次世界大戦後の混乱や中国本土の国共内戦から逃れてきた難民が大量に流入しました。1950年代から1960年代にかけては、香港の暗黒街を牛耳る犯罪組織「三合会(トライアド)」が実質的に支配し、アヘン窟、賭博場、売春宿が公然と営業する危険地帯だったのは歴史的事実です。
しかし、1970年代に入り香港警察による大規模な一斉摘発が繰り返されると、組織犯罪の勢力は急速に衰退していきました。以後の九龍城砦は「犯罪者の巣窟」から、貧しい労働者や身元証明を持たない移住者たちが安価な家賃を求めて暮らす「超高密度の下町住宅街」へと変貌を遂げていきます。元住民の多くは「鍵をかけずに外出できた」「住民同士が助け合う温かい場所だった」と語っており、外の世界が抱く過激なイメージと内部の生活実感には大きなギャップが存在していました。
【九龍城砦の間取りと構造】迷宮化したビル群と住民の過密な日常生活
九龍城砦の建築構造は、世界中どこを探しても類を見ない特異なものでした。建築基準法などの規制が一切存在しなかったため、敷地内には10階から14階建ての無許可高層ビル約350棟が隙間なく隙間を埋めるように乱立。隣のビルと外壁が完全に密着し、廊下や階段が複雑怪奇に連結された結果、ひとつの巨大な有機体のような「立体迷路」を形成していました。
各家庭の間取りは極めて狭小で、典型的な部屋の広さは約4畳から6畳(約6〜10平方メートル)程度。この限られたスペースに二段ベッドや三段ベッドを設置し、家族5〜6人がすし詰めで暮らすケースも珍しくありませんでした。日当たりや通気性は最悪で、1階や低層階には太陽の光が一切届かず、常に蛍光灯が灯り、上層階から垂れ流される排水が路地に滴り落ちる薄暗い環境でした。
そんな過酷な住環境において、住民たちにとって唯一のオアシスだったのが「屋上」です。近くにあった旧啓徳(カイタク)空港へ着陸するジャンボジェット機が、ビルすれすれの超低空で轟音を響かせながら頭上をかすめていくなか、屋上は子どもたちの遊び場、住民たちの憩いの場、そして洗濯物を干す貴重なオープンスペースとして愛されていました。
【アヘン窟から無免許の闇医者まで】内部に広がった独特の経済圏と生活インフラ
行政サービスが届かない九龍城砦内部では、住民たち自身の手によって驚くべき自治と独自経済圏が築かれていました。その代表例が「闇医者」や「無資格歯科医」の密集地帯です。中国本土で高度な医療教育や免許を受けながらも、イギリス領香港では資格が認められなかった医師たちが砦内に診療所を開設。香港市街地の正規クリニックに比べて圧倒的に治療費が安かったため、砦の外からも多くの一般市民が治療を受けに訪れていました。
さらに城砦内部は、香港全体の胃袋を支える一大生産拠点でもありました。無許可の魚団子(フィッシュボール)工場、ローストダック加工場、麺工場、プラスチック加工工場などが無数に稼働。衛生基準の検査がないため安価に製造でき、早朝から作られた加工食品は香港中の屋台や食堂へと出荷されていきました。
生活インフラの確保も住民たちの知恵の見せ所でした。電気は香港電灯の送電線から非合法に電線を引き込み、無数のコードがクモの巣のように頭上を覆っていました。水に関しては、地下深くまで井戸を掘削してポンプで吸い上げる私設水道網が発達。郵便配達員だけは砦の複雑な内部構造を完全に把握しており、番地が存在しない暗黒の迷宮のなか、宛名と受取人の顔を頼りに手紙を届けていたという驚くべき記録も残っています。
【日本人潜入者の証言】写真家・宮本隆司や吉田一郎が見た城砦の真実
九龍城砦の生々しい実態を日本に伝えた重要な証言者として、写真家の宮本隆司氏と、ジャーナリスト・地方議員としても活動した吉田一郎氏の存在を欠かすことはできません。
宮本隆司氏は、解体が迫る九龍城砦に足繁く通い、迷宮のような内部空間や住民の退去が進む廃墟の表情を大型カメラで克明に記録しました。その作品群をまとめた写真集『九龍城砦』は、1989年に第14回木村伊兵衛写真賞を受賞。光と影が交錯する圧倒的な建築の迫力と、そこに染み付いた人々の生活痕を見事に捉え、世界的にも極めて貴重な建築学的・民俗学的ドキュメントとして今なお高く評価されています。
一方、香港の大学へ留学中に九龍城砦へ足繁く通い、実際に内部で長期にわたり密着取材を行ったのが吉田一郎氏です。著書『九龍城砦で暮らしたこと』などで明かされた体験談には、外部の人間が恐れる危険地帯という先入観を覆す日常が描かれています。住民たちが経営する食堂で食事を共にし、怪しげな路地の奥に息づく人情味や、自治組織である「九龍城寨街坊福利事業促進会」が治安や環境維持に奔走していた実態など、リアルな肉声と現場の空気感を克明に書き残しました。
【解体の理由と立ち退き補償】なぜ巨大スラムは1990年代に消滅したのか
長年にわたり手付かずだった九龍城砦に終焉の時が訪れたのは、香港の運命が大きく動いた時期と重なります。1984年の中英共同声明によって、1997年7月1日に香港が中国へ返還されることが正式決定。主権返還を目前に控え、英中両政府にとって「無法地帯の象徴」であり、火災や構造崩壊の危険を常に孕んでいた城砦の存在は、看過できない政治的・都市計画的課題となりました。
1987年1月、香港政庁は九龍城砦の全面解体と公園化計画を電撃的に発表します。当然ながら、長年砦に根を下ろしてきた住民や店舗オーナーたちからは激しい反対運動が巻き起こりました。これに対し、政庁側は総額約27億香港ドル(当時のレートで数百億円規模)にのぼる手厚い立ち退き補償予算を計上しました。
補償内容は、部屋の広さに応じた現金補償のほか、新たに建設された公営住宅への優先入居権、店舗経営者に対する営業補償など多岐にわたりました。数年にわたる粘り強い交渉と個別対応の末、1992年までに大半の住民が退去を完了。1993年3月に本格的な解体工事がスタートし、翌1994年、半世紀以上にわたって増殖を続けた巨大建築群は完全に姿を消しました。
【九龍城の元住民の現在と跡地】九龍寨城公園へ変貌した街の記憶
解体によって城砦を去った元住民たちは、香港各地の公営団地(屯門や黄大仙など)や民間の集合住宅へと移り住みました。近代的なインフラと明るい日差し、衛生的な水回りを手に入れた一方で、多くの元住民が「隣近所の顔が見え、困ったときには助け合えた城砦時代の濃密な人間関係が失われてしまった」と、失われたコミュニティへの郷愁を口にしています。現在でも元住民同士の同窓会的な集まりが開かれるなど、その絆は完全に途切れていません。
巨大迷宮がそびえ立っていた跡地は、1995年に美しい中国伝統様式の庭園「九龍寨城公園(Kowloon Walled City Park)」として一般公開され、市民や観光客の憩いの場となっています。
園内には、清朝時代の役所建築であった「衙門(がもん)」が当時の姿のまま修復・保存されているほか、解体時に地中から発掘された「九龍寨城」と刻まれた花崗岩の扁額(へんがく)や、かつての南門の基礎遺構が展示されています。展示館では城砦の精密な断面模型や元住民のインタビュー映像が公開されており、かつてこの場所に世界最大の過密迷宮が存在した動かぬ証拠を今に伝えています。
【九龍城に住んでいた人】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:九龍城砦に住んでいた人は、家賃や税金を払っていたのですか?
A1:香港政庁への住民税や固定資産税などは一切免除されていました。住居は自己所有(非公式な売買)または賃貸で、家賃は当時の香港市街地の相場に比べて破格の安さでした。この経済的な安さが、多くの低所得層や難民を引きつける最大の要因となっていました。
Q2:九龍城砦に日本人が住んでいたというのは本当ですか?
A2:定住して暮らしていた一般的な日本人移民の公的記録はほぼありませんが、取材や研究、語学留学の過程で部屋を借りて長期滞在したジャーナリストや建築研究者、旅行者が複数存在します。また、解体直前には日本の調査団が詳細な実測調査を行い、貴重な建築断面図を残しています。
Q3:一般人が足を踏み入れたら生きて帰れないほど危険だったのですか?
A3:1950〜60年代は暴力団が仕切る危険なエリアでしたが、1970年代以降は昼間に迷い込んだ一般人が突如襲われるような危険性は大幅に低下していました。ただし、内部は極端に暗く迷路状で、無数の電線や漏水、独特の異臭が立ち込めていたため、部外者が一人で奥深くまで立ち入るには強い心理的恐怖を伴う空間でした。
まとめ:消え去った巨大迷宮の記憶と人々の息遣い
九龍城砦は、単なる「スラム街」や「犯罪者の隠れ家」という言葉だけでは到底くくりきれない、極めて多面的な都市生態系でした。国家権力の狭間に生まれた奇跡的な空白地帯で、人々は知恵を絞り、独自の秩序を打ち立て、過酷な環境のなかで逞しく生活を営んでいました。
コンクリートの巨塔が瓦礫となって消え去り、静穏な公園へと姿を変えた現在も、九龍城砦に暮らした人々の生々しい記憶と驚異的なバイタリティは、失われた伝説の都市の息遣いとして語り継がれています。 (出典: 九龍 城 住ん で いた 人(Yahoo!ニュース))